国際金融家、ユダ金、多国籍企業オーナー、イギリスシティ、奥の院・・・世界を支配しているといわれる存在は、陰謀論と言うわけではなく存在するのは事実です。
そしてそれは日本国内でもあてはまることです。
今回は現代日本のヒエラルキーを表す、日本の黒幕と言われる人たちを紹介していこうと思います。
目次
児玉誉士夫(こだまよしお)がフィクサーと呼ばれるようになった原因にはその資金力が外せない。児玉は戦時中、上海で海軍航空本部の嘱託として「児玉機関」と呼ばれる組織を運営し、そこでダイヤモンドやプラチナなどを秘密裏に貯めこんでいた。その額現在の価値にして数千億円はくだらないという。その他にも武器製造や食料、ヘロインまで手を伸ばし莫大な資産を築きあげていった。
終戦後、軍やGHQの目を逃れて資産を日本に持ち込むと、鳩山一郎の日本民主党結党の資金として提供し、1955年の自由民主党誕生の際にも大金を投入、フィクサーとしての大きな地盤を作り上げていった。
また任侠の世界でも、安保闘争などで左翼に対抗して組織を動員するなど、後に東声会会長・町井久之氏と三代目山口組組長田岡一雄氏との兄弟の盃を酌み交わしている。ちなみに日本最大の右翼団体「全日本愛国者団体会議」でも指導をしていた。
安保闘争の警備を稲川会初代会長となる稲川聖城に依頼したり、岸信介(安倍晋三前総理の祖父)を総理にするさい一役買ったり、さらに日本で2番目の広告代理店博報堂にも顔が聞くなど多方面で人脈持っており、まさに日本のフィクサーとして君臨していた。
児玉がこれほどまでに権力を手中におさめた要因は、戦勝国であるアメリカに児玉が気に入られたことも大きいだろう。実際、児玉は晩年、自分がCIAの対日工作員であることを認めていることからも読み取れる。
児玉は長くフィクサーとしての座についていたが、アメリカが田中角栄に仕掛けた(ともいわれる)ロッキード事件に巻き込まれるように権力を剥がされ始めると、徐々に繋がっていた人脈は離れて行った。
84年に没した際、葬儀に参加した政治家はごく少数だったという。
読売中興の祖と呼ばれる正力松太郎。
戦前の1924年に読売新聞を買い取ると、当時は二流紙扱いだった同紙をグングン成長させ、1941年頃には東日本最大の新聞社にまで大きくした。その功績から大正力とも言われた。
戦後は前述の児玉誉士夫同様、巣鴨プリズンに収容されしばらく公職追放などの処分受けている。
蛇足になるが巣鴨プリズンでは、東条英機など戦犯として死刑になった者もいれば児玉や正力のように後に絶大な権力者になった者もいる。アメリカの犬になるか、日本人としても凶事を忘れないか・・・が運命の分かれ道だったのではないでしょうか?
1955年、正力は衆議院議員に初当選すると、翌年には原子力委員会の初代委員長・科学技術庁の初代長官に就任している。その2年後には国内初の原子炉(実験炉)を稼働させるなど原発導入を強力に推進していった。
しかし、正力自身は原発のことに関して全くの無知であったとも言われている。国会の中で「核燃料」を「ガイ燃料」と発言するなどして失笑されている。
有名な話だが正力も児玉同様、CIA工作員だったことが分かっている。コードネームは「PODAM(ポダム)」。
当時アメリカ大統領だったアイゼンハワーは原発を推進するため、唯一の被爆国である日本に原子力発電所を建てることを計画。その手先として動いたのが正力、という事だろう。これなら正力が原発の知識が無いことも納得だ。
権力に執着していた正力は総理の座も狙っていたというが、その野望が叶えられることはなかった。
岸信介といえば安倍晋三前総理の祖父として名前を聞いた方も多いことだろう。
岸信介は1896年山口県生まれ。東大卒業後、農商務省に入省し、戦時中は満州国建設に貢献するなど実績を積んでいった。戦後は児玉、正力と同じように巣鴨プリズンに収容される。家族も戦時中日本の中枢として動いた岸が帰ってくるとは思っていないほどだったが、東条英機ら7名が絞首刑にされた翌日に釈放されて戻ってきた。その後公職追放期間が満了すると衆議院選挙に出馬、当選する。
順調に出世街道を歩んだ岸は、1957年に、病に倒れた石橋首相に代わり、ついに総理の座に就いた。
岸内閣のクライマックスは1960年の「日米安保条約」(改定)だろう。多くの反対にあいながらも強行採決を行いこれを実現させた。しかしこの混乱の責任を取る形で総辞職に追い込まれてしまう。
岸はこの「日米安保条約」改定が真に評価されるのは50年かかると残している。
すでに60年経っているが、その評価はどうだろう?少なくとも岸が思い描いていたような評価は得られていないようだが・・・
ちなみに岸信介の弟の佐藤栄作(岸自身は岸家の養子)は総理大臣になり、女婿の安倍晋太郎は外務大臣に、そして外孫の安倍晋三が総理大臣というまさに名家の家柄であり、日本の貴族とも言えるだろう。もっとも日本では親が政治家だと、子が政治家になれる確率はそうでない親を持つ人より1万倍ほど政治家になりやすいと言われている。それほど美味しい商売なのだろう。
田岡は任侠のエリート街道のような人生を歩んでいる。
徳島県の小作農の家に生まれると、幼いころに両親と死別。引き取った叔父からは日常的に暴力を振るわれるなど辛い少年期を送る。学校を卒業後、造船所に就職するも自身も気にくわない上司をぶん殴り辞めさせられた。その後はゴロツキな生活を過ごし、ヤクザ入り。その翌年には殺人罪で服役している。
しかし、このような人生が戦後の状況にはマッチしていたのかもしれない。
終戦後の混乱する社会で、田岡は演芸興業と湾港での荷役の仕切りで大きな資産を築くことに成功する。
既に田岡はそのカネを元に、有力団体を次々に吸収していき、3代目山口組はどんどん大きくなっていった。この急激な拡大には、田岡が美空ひばりや力道山など当時のトップスターのタニマチであったことも影響していたとする説もある。
芸能という表の面と、暴力団という裏の顔を持つ田岡の威光は広がり、政財界との繋がりも増えていき増々影響力を強めていき、山口組を全国区の組織にすることに成功した。
1981年に死去するまでその地位を守り続けた。
池田大作は1928年東京で生まれた。
1947年19歳の時に創価学会に入信すると、当時の第2代会長であった戸田城聖の出版会社にも入社する。後にその出版会社が倒産すると、同じく戸田が関連する金貸し、つまり金融会社に転身する。
金貸しが肌に合っていたのか、池田はそこでメキメキと頭角を現す。
信者のみならず多くの人たちに強引な貸し付け・取り立てを行い業績を上げていく。その強引さは相当なもので、警察沙汰になったことも少なくないという。
また、弁が立ち、パフォーマンスも上手いため、学会内の公の場でも活躍を広げていく。
1960年に戸田の跡を継ぎ第3代創価学会会長に就任すると、金貸しのノウハウを使い会を一気に大きくしていく。
就任前から池田は入信者が3,000世帯ほどだった創価学会会員を、75万世帯を目標に掲げ、「折伏大行進」という会員獲得作戦を行い、会を拡大していったのだ。
これも金貸しのとき同様、かなり強引なものであり社会問題にもなり、創価学会のイメージを傷つけてしまったことも事実だろう。実際、池田は様々なスキャンダルや、それを利用された事件など数え切れないほどある。
しかし、1964年には公明党を結党するなど、さらに権力を大きくしていくなど、少なくとも信者たちにとってはカリスマであったのは間違いないだろう。
創価学会員は国家公務員や大手舎弟企業など多くおり、現在でも日本で非常に強い権力を保持している。
そしてもう一点気になるのは池田の健康問題である。
すでに5年以上、公の場には出ていないという。すでに90を超える高齢、口の悪い人はもう亡くなっているのではないかともいうが・・・
このカリスマの行方は、もう少し注目されそうだ。
1908年鹿児島県生まれ。西郷隆盛の祖母は四元家かた嫁いでおり、遠い親戚だという。
1928年、東京帝国大学に在学していた四元は、上杉慎吉主宰の七生会に入り井上日召と出会う。井上日召は当時、政財界を騒がせた怪僧と言われておりこの井上が指揮した「血盟団事件」に加わる。当時の日本の重臣・牧野伸顕を暗殺しようというものだがこれに失敗。四元も連座で逮捕され、懲役15年の実刑を受ける(6年後恩赦で釈放)。
出所後、時の首相近衛文麿・鈴木貫太郎の秘書となり政治を学び、戦後は三幸建設工業の経営を受け継ぎながら吉田茂首相、池田勇人、佐藤栄作などと親交を結んだ。四元自身、保守派であり、同じ系統の政治家とウマが合ったようだ。
また金に物を言わせてことを運ぼうとするやり方はあまり好きではなかったようで、児玉誉士夫や田中角栄などとはソリが合わなかったと見られている。
しかし、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘、竹中登、細川護熙、宮沢喜一と歴代の綿々たる総理に何らかの形で関わり続けて、各方面に影響力を持ち続けた。首相達も四元の言葉に耳を傾け、情報とアドバイスを得ていたのだ。
四元は本物の保守であった。彼の残した言葉にそれを感じ取れる。
「今の日本には、そのために生き、そのために死んでもいいという者が誰もいない」
「今までの人生で色々な危険があったが、いま(の時代)が最も危機だ。ところが、ほとんどの国民が危機を感じていない。最大の国難だ。僕は本当に危機感を持っている。」
大阪に生まれた矢次は幼いころに母親を亡くし、佐賀で育つことになる。
20歳で上京すると、2・26事件で処刑されることになる革命家・北一輝のもとで住み込みで活動を共にしている。これが契機となり矢次は労働運動に身を投じ、労働争議の調停機関「協調会」でネゴシエーターとして活躍する。
矢次は野田醤油争議、日本楽器争議、共同印刷争議などの大争議で力を発揮し、運動家や軍部、特に陸軍に人脈を築いていく。
第2次大戦後は公職追放されたが、26年に解除されると、民間の国策研究機関「国策研究会」を再建させ、政府の外交のフィクサーとして暗躍していくことになる。
実際、岸信介政権では個人特使として韓国入り。矢次は李承晩大統領(当時)と会談して、1910年からの日韓併合を謝罪して国交回復を打診したと言われている。
他にも1973年に起きた「金大中事件」で、日韓で事件の捜査を棚上げし政治決着と批判が集まると、世論鎮静化のため拘束中の金氏の保釈を駐日韓国大使に打診するなど長きにわたって権威を振るったことが、公開された外交機密文書で明らかになっている。
矢次は死ぬまで韓国や台湾の政財界とのパイプ役として活躍をつづけた。
亡くなった際、読売新聞元記者橋本文雄氏は矢次を次のように評している。
「黒幕と言われる人々の知る情報は、彼らの企業の利益に関わるものに限られていた。一方、矢次の持つ情報は多方面にわたり、かつ正確で、あった人が必要とする情報を常に持っている。彼は偉大なる情報屋であり、それが怪物の本質である。」