あなたは今現在、幸せですか?それとも不幸ですか?
状況によって幸不幸は変わることでしょうが、心から幸せだと言い切れる人はどのくらいいることでしょう。
以前、「世界一幸せな国」という記事も書き、その中で幸せへのヒントを紹介しました。
確かに生き方によって幸せには近づいていきます。ただ、周りの環境に影響されてしまうことも多いかもしれませんし、知らぬ間に不幸の原因を招き寄せてしまっているかもしれません。
いえ、気が付かなければ、知らなければ、
現代社会では不幸を自ら招いてしまうのは非常によくあることなのです。
今回は幸せと不幸を比較しつつ、その根本原因を探っていきたいと思います。
不幸を取り除き、幸せを得るための道筋を見つけていきましょう。
目次
あなたが”幸せである”、あるいは”不幸だ”、と感じている理由とはなんでしょう?
人によって様々な悩みがあるものです。
「受験に失敗した」「人間関係に不安がある」「お金を失った」「大切なものをなくした」「恋人に振られた」「友人がいない」「アイディアがでない」「自分の時間が無い」・・・
不幸を感じてしまうことを多々あるのではないでしょうか?
ただ、あまり認めたくはありませんが、これらを招いた原因は全て自分自身の行動にあるのも事実です。
時に不慮の事故もあるでしょうが、それでもそこまでの自身の行動にまったく原因がないと言い切れることはないでしょう。
そして、自分に原因がある、と認めることのできる人であれば、余計に責任や不幸を感じてしまうことになります。
しかし、まずは自らにこそ原因があると気付くこと。
すなわち、幸も不幸も自分が担っているんだと発見する・気が付くことがとても重要なのです。
不快な事があった時、人のせいにすれば自分の責任は軽くなりますが、それは他人に依存しているという事。自分で自分のことを制御できないから、他人に任せてしまっている、という状態です。
自分が不幸なら他人のせいにする・・・というのは、私のことをあなたに任せます、という奴隷根性です。
どんな状況であっても自分自身をキチンと見つめることこそが、
幸せと不幸をコントロールするために絶対に必要な事なのです。
では、今あなたを悩ませている事柄は、どのくらい不幸なことなのでしょう?
失ったお金の額や、パワハラを受けた回数とかではなく、
それがどのくらいのレベルの不幸なのでしょう?
「〇〇さんと比べると出世が遅い」
「✖✖さんよりモテない」
「年収が平均より低い」
「人よりも友人の数が少ない」
「理想の人には程遠い現状だ」
いかがでしょう。
このようにほとんどの場合、相対的に(何かと比較して)不幸だと感じているのです。
違う言い方をすれば、何かと比較をしなければ、不幸かどうかを確認できないのです。
これは”絶対的な不幸(誰もが不幸だと感じる事)は存在しない”ということを表しています。
つまり、不幸の本当の原因は、”比較してしまう自分にある”ということも見えてきます。
比べることを辞めた自分を想像してみてください。
出世競争に悩む必要はありません。自分のしたいように自分のペースで仕事をすればいいのです。
友人の数を気にせず、今いる友人を大切にするのです。
理想に苦しまず、今の自分を受け入れ、身近な幸せを探してみます。
お金が無いことに注目せず、出来る範囲で自分らしく精一杯、自分のやりたいことを見つけて生きていく・・・
これらが出来ている自分は、果たして不幸でしょうか?
現代社会は、あらゆることを数字で表そうとします。
子どものころから、通知表やテストの点数。あるいは出席日数。
受験で点数競争をして、社会に出ても販売数のノルマ。
マスコミも年収が高い低いで大騒ぎして煽り立て、たくさん数字を挙げる人を賛美。
友人が何人いる、今まで付き合った人数は何人だ、フォロワーが何人いる、動画再生数が何回だ・・・
つまりは競争社会です。
競争社会は苛烈です。
競争社会に身を置くと、常に勝ち続けることに幸せを求めるようになってしまいます。
しかし、どんな争いであっても、勝つ人はわずかであり、多くが敗者になります。
金持ち比べなど、生まれで勝負がついてしまっていると言っても過言ではありません。
負けた人は、
「今回は負けてしまった。次は勝てるように頑張らなくては・・・(そうでなければ幸せになれない)」
という気持ちになってしまいます。
ここに幸せが生まれてくるでしょうか?
こうなると他人の痛みを無視できる人は、どんな手段を使っても勝ちに行くような人間になってしまってもおかしくありません。
しかも、どれだけ勝利を重ねても、生きている限り競争に終わりはないのでいずれ敗北を味わうことになります。ここにも幸せはありません。
さらに、(一時的に)勝った人であっても、本当に幸せでしょうか?
他人を陥れて勝てば、まともな人なら心が痛むでしょう。あるいはそれを見て見ぬ振りをして、心の奥底に汚れを押し込めて生きていくかもしれません。
そもそも、勝てば幸せになる、という発想自体が社会常識によって操られて得た考えです。自らが心から望んだ幸せではありません。
塀の中で他の人よりおかずが一品多かったと喜んでいるようなものです。
ようするに、競争社会は勝った人も負けた人も幸せにはなれないのです。
競争社会が好きなら何もいう事はありませんが、
そういった自分を縛り、不幸を招く社会常識から離れて生きてみる、ということを我々は考える時期に来ているのではないでしょうか・・・?
数字だけでなく、日本人はブランド信仰も根強くあります。
カルティエのジュエリーがいい、スタバでお茶ってオシャレ、東大を出た人は偉い、医者は何でも知っている、政治家は尊敬に値する・・・・
しかし、これも数字も同様で、
ただの肩書に過ぎません。
確かに、カルティの時計は高価かもしれませんが、万人に似合う訳でもないし、好むわけでもありません。
尊い政治家もいますが、汚職に手を染める政治家もいます。
命を守るために懸命に働く医者もいれば、金儲けのためにだけ患者を診る医者もいます。
どう生きるかが問題なのであり、そこに肩書き・ブランドは一切関係ありません。
そこに執着してしまえば、自分が本当に求めているものが見えなくなってしまいます。
もう1つのポイントが、
「他人からどう見られるかを気にし過ぎてしまう病」です。
〇〇を失敗したから、ダメ社員と思われているだろうな・・・
恥ずかしい姿を見せたから、モテないだろうな・・・
こんなことをしたらみんなに笑われてしまうな・・・
反対に、
ここまで化粧したのだからみんな綺麗だというだろう
これだけの大学に入ったのだからみんな尊敬するだろう
自分は重役だから、他の人は自分を敬うべきだ
どちらも、自分で勝手に思っているだけに過ぎません。
人は自分に一番興味があるのであって、他人には対して興味がありません。
化粧をしても、あなたを好きな人以外はどうでもいいことです。
社長だって、ただの役割・肩書きに過ぎません。
〇〇を失敗しても、逆にそれで良い注目を浴びることになったかもしれません。
恥ずかしい事をしても、逆に母性本能を刺激したかもしれません。
つまり、他人の思い・考えなんて絶対にわからないのです。
相手を思いやる心は必要であっても、過剰に気にするのは無駄なだけなのです。
他人の目を気にしたり、
数字を気にしたりすることによって、
自分の本当にやりたいことをやらないで生きていけば、幸せは遠のいてしまって当然ではないでしょうか?
自分の心地よい場所を探しましょう。
安らぐ生き方を模索しましょう。
見つけたら、それを大切にすればよいのです。
そこに社会常識は必要ありません。
競争も無意味です。
自分の目で見て、心で捉えて、幸せな歩みを進める。
これは、誰にでも出来ることです。
幸不幸は考え方次第・・・
といったお決まりの言葉よりはかなり具体的にご理解いただけたのではないでしょうか?
まずはできることから、
一緒にやってみませんか?