教育というのは国家の一大事です。
子どもにどんな教育を行うかによって、国や地域の方向性が決まってしまうからです。
共産主義国家で育った子供はそれが”普通”になります。
資本主義で育った子どもだって同様。
親が喧嘩ばかりしていれば、”争うのは普通”と染みつきます。
周りの大人がTVの話ばかりしていれば、”TVを見るのが当然”となります。
そしてそういった子ども達が新しい社会を形成していくのですから、教育こそが国家の一大事である・・・というのは決して間違ってはいないでしょう。
しかして、教育とはどのように行うのが最善なのでしょう?
これには様々な意見が出るのは想像に難くありませんが、
子ども1人1人の個性に合わせて教育を与える・・・ということが「良い」という意見に異論をはさむ人は少ないことでしょう。
まずはこの考え方を基本に考えていきます。
子どもはそれぞれ、好きなものも興味を抱くものも違うし、成長の速度も違います。得手不得手も異なります。
それなのに、○歳になったんだからこれくらいは出来ないとダメ
○年生なんだからこれくらいはやろうね
というのは、あまりに画一的であり、その子の特性などを無視した押し付けの教育になる恐れがあります。
これはハッキリ言って学校のことを指しているのですが、これは学校の先生が悪いという意味ではありません。
まず学校の先生としては、教室に生徒が30人以上もいれば、1人1人の個性を把握するのは非常に困難です(ただでさえ教師の過重労働は問題になっている)。
また、現状では、最低でも皆と同じレベルにしてほしいと考える親もいますし、他の人と違うことを怖がる親だっています。とにかく勉強が出来るようにしてほしい親だっていますし、学校に行って学ぶのが当然だと考える親もいます。
教師としては、そういった親がいる限り、それに応えなくては、という発想が出るのは当たり前です。
従って、”勉強をやらせる”という行為に移ってしまうのも当然の帰結になります。
これをもってして学校がダメだ、ということにはなりません。
学校は求められていることをして、文科省から支持されたことをやっているに過ぎないのです。教師を否定する理由はありません。
とはいえ、「子供1人1人の個性に合った教育」は出来ないのも事実。
ではどうすればよいのか?
答えは、親、ではないでしょうか?
子どもの個性を一番把握しているのはその子の親です(である可能性が一番高い)。
親が、子どもを良く見て、
今は算数を教える時期だ
今はとにかく遊ばせる時期だ
今は一緒に身体を動かすのが良い
などと判断していくのが最良といえます。
もちろん、学校に行くのが良さそうだ、という可能性もありますよね
そこには早期教育がどうだとか、何歳だから、何年生だから、というのはありません。
その子にとって、もっとも学びになる方法を一緒に探って行けばよいのですから
インド独立の父マハトマ・ガンジーの言葉に
「幸せな家庭に勝る学校は無く、道徳的な親に勝る教師はいない」
という言葉があります。
これを地で行くことになるわけです。
こういったことを、肯定的にとってくださる方は増えていると思います。
昔はとにかく学校へ行っておけばOKという親も多かったでしょうが、その後情報も増え、教育を勉強している人も増えているからです。
とはいえ、まだまだ学校へ行くのが普通・・・と考える人が多いのも事実です。
ですから、親が
「自分の子が他の子と違う道を進んでもOK」、
「違うやり方をしたって大丈夫」
と思えるかが問題になってきます。
熱心な教育者ほど、学校に行かせたがったり、○年生までに□□を出来るようにしておきましょう、などと言います。
しかし、それはさすがに子どもの個性に合わせた思考法ではありませんよね。
とはいえ、前述したとおり、忙しい教師に個性にあった教育を求めるのには限界があります。
親がしっかりとした意志と知識で、子どもと共に学んでいくしかないのではないでしょうか?
まずは親がぶれずに、勉強して、子どもに伝える。
これが、もっとも大切で効果的な教育なのではないでしょうか?