資本主義が限界を迎え、人類の進化が進めば社会主義そして共産主義になると説いたのはカール・マルクスらです。ユダヤ人であった彼らのこの説は後に、彼らお得意の2元論(善と悪を分け庶民の思考をコントロールする方法)であったことが各所で明らかになっています。
しかし、事実がそうである中で、実際に共産主義国家は生まれ、現実として多くの被害者が出ました。結果、共産主義国は次々と倒れ、残された中国も既に共産主義という思想は形骸化しています。
今回取り上げるのはルーマニア。その国で独裁者として一時はわが世の春を謳歌したチャウシェスクを通して「歴史が動いた瞬間」を見てみることにしましょう
独裁者チャウシェスクから見る歴史が動いた瞬間
ルーマニアとも関係の深かったソヴィエト連邦(現ロシア)が共産主義国家に生まれ変わったきっかけはロシア革命です。ロシア革命は1917年に起こりましたが、それまでは人口約2億人だったロシアを支配していたのは約300万人のエリート官僚、貴族、実業家たちでした。彼らは自分たちの利益を守るため、共同作業を行うことを知っていました。
そしてその他であった大多数の庶民は力を合わせて革命を起こした・・・・わけではありません。エリート層たちは大衆が決して協力することを覚えないよう、教育していたのです。エリート層は、その労力の大半をその点に傾けていました。
革命が成功した要因は、わずか2万3千人程だったと言われる共産党員が巧みな組織力と機敏な行動で支配力が落ちていた皇帝から、そして革命指導者だったケレンスキー(の臨時政府)から奪い取ったのです。
※この革命にも国際銀行家達が背後にいたと言われますがそれはまた別のお話しという事で
これをきっかけに共産主義は勢力を拡大した。
ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、東ドイツそしてルーマニアなど東ヨーロッパを飲み込んで行った。
共産主義は当該国を70年以上も支配し続けたが、1980年代末期になると時代は動く。
ソヴィエト連邦が共産主義政府への支援を打ち切るとベルリンの壁の崩壊など共産主義国家を革命の嵐が襲った。
※ベルリンの壁・・・現ドイツを西ドイツと東ドイツに隔てていた実際にあった壁。革命により取り壊され、ドイツは現在の形になった
だが、1965年以来ルーマニアを支配してきたチャウシェスクは、この波を乗り越えられると信じ切っていた。1989年、チャウシェスクは首都ブカレストの中心部において大規模な政権支持集会を催した。事件はそこで起こった。
ニコラエ・チャウシェスク
1945年第2次世界大戦を敗戦したルーマニア王国は崩壊し、ソヴィエト連邦(当時)に占領された。
1947年にルーマニア共産党がルーマニア国内の権力を握ると、以前から党員であったチャウシェスクは重要な地位を経て行った。
1965年、ついにルーマニア共産党書記長(最高権力者)となったチャウシェスクは徐々に独裁者となっていく。ルーマニアを社会主義共和国とすると、翌1966年、有名な「産めよ増やせよ」政策(人口増加政策)のもと、人工中絶を禁止する法律を作った。
5人以上の子を持つ母は優遇され、10人以上の場合は「英雄の母」と称した。
しかし、この政策は後に「チャウシェスクの落とし子」などと呼ばれる問題を生み出すことになった。
1968年、チャウシェスクはチェコ事件に関してソヴィエトに抗議し、西側諸国から「反ソ連の一匹狼」と呼ばれ、130億ドルにも及ぶ経済融資を受けた。
これはチャウシェスクなど一部の権力者は恩恵を受けたが、この莫大な債務の返済がルーマニアの財政を圧迫し、革命の火種になっていく。
チャウシェスクはこの借金を返済するため、ルーマニア国内での生産されたあらゆる農産物、工業製品を大量に輸出した。その結果、国内は一気に品物が無くなり、国民は食料が配給制になってしまった。
この政策を「対外債務返済のための一時的な処置」としたが、国民は日々の食料や冬の暖房の燃料すら事欠く生活を強いられた。反面、チャウシェスクは国営テレビで大量の食糧を持って芸術祭に訪れる様子を放映するなど、日増しに反感は高まっていった。
しかし、チャウシェスクは側近らからは「国内は上手くいっている」とだけしか報告を受けておらず、実際上手くい言っていると思っていたという説もある。
共産主義国家で革命が相次いている中でも、大規模な政権支援集会を開いたのもこういったことからかもしれない。
だが、革命の波はルーマニアも確実に侵食して行っていた。
歴史的瞬間
実はこの強引な対外債務返済政策によって、1989年の夏ごろには債務の返済は概ね完了していたという。しかし、この政策自体が止められることはなかった。
国民が貧困にあえぎ続ける中、チャウシェスクは(結果的に)最後となる演説を、この政権支援集会で行う。
そして、演説の最中に事件は起こった。
突然の野次。
その1人が切っ掛けになり、1人、また1人と大きな罵声になってゆく。
ルーマニアには秘密警察セクリターテがおり、この集会でも目を光らせていたがこの群衆の声をかんたんに黙らせることは出来なかった。
セクリターテは放送していたテレビ局の人に放送の停止を命じたが、中断されたのはほんの少しだけ。カメラは「現実」を映さないように空に向けられたが、音響は音を拾い続けた。
チャウシェスクは「アロー!アロー!」の連呼。
チャウシェスクの妻エレナも「静かに!」と騒ぎ続ける民衆を鎮めようとした。
チャウシェスクはなおも「静かにするんだ、同志たちよ!」と語りかけるが、一度来た波は、もう後ろには引いていかなかった・・・
この瞬間こそ、庶民が”マイクの前に立っている老人よりも自分たちの方が強いと気が付いた瞬間だった”のだ。
じつはこの映像はYouTubeでも見ることが出来る。
その後
結果的にこの集会は、チャウシェスク政権の衰退と、革命家たちの結集を促すものを放映してしまうことになった。
これをきっかけに、ルーマニア全土で暴動が発生。チャウシェスクは軍隊を使いこれを治めようとするも、国防大臣ワシーリ・ミリャがこれを拒否。これまでチャウシェスクに忠誠を誓っていたルーマニア国軍すらも政権に反旗を翻してしまう。同年12月のルーマニア革命でチャウシェスクは完全に失脚。政権は崩壊した。
12月25日、革命軍によって夫婦ともに即決で死刑判決がくだされ、公開処刑(銃殺刑)された・・・
しかも、この革命は一般大衆に権力が渡ることはなかった。
最終的に地位を得たのは自称「救国戦線評議会」であった。
しかも、この救国戦線評議会は実は共産党の一派だったのだから皮肉である・・・
後日談として、革命後、チャウシェスクの落とし子が某所で見つかった。
人口を増やすために子どもをたくさん産ませたが、上記の原因で国内は貧困にあえいでいたため一般の親では子どもを養えなかったのである。それらの子どもを「国家は生みの親以上の手厚い養育が出来る」と引き取ったのである。
しかし、実際は3歳ごろになると子どもを選別し、将来の働き手となりそうな子には服や食料・教育を与えたが、発育の悪い子などには特に何も与えなかったという。
そういった子たちは一か所に集められ、酷い環境の下で育てられた。
その子らが見つかった時、子どもたちは痩せこけ、糞尿が身体について酷い臭いだったという。
また、チャウシェスクが書記長及び大統領になった頃は、決して悪い指導者ではなかったともいう。彼は農民の出身で、学はなかったが庶民の生活を知っていた。そのため、そういった人たちのためにいわゆる善政を敷いていたという。
チャウシェスク(とその妻)が変わってしまったのは中国や北朝鮮を訪問して身体と言われる。チャウシェスクは同じ共産党国家のトップが豪華絢爛で贅沢な暮らしをしているのを見てから、変わってしまったという。
ルーマニアに戻ると、彼は1,000億円以上もの蓄財をしたり、300もの宮殿を建てたりした。
そして前述のとおり、彼の部下からは(部下も私腹を肥やす為)、国内のことは良い報告ばかりを受けていたという。
だから、政治は、国内は上手くいっているというように信じていたのはあながち嘘でもないようだ。そう考えると、動画で罵声が始まった時、チャウシェスクの声が詰まり、驚きの表情を浮かべたのも理解できる。
チャウシェスクは、無知だったからこそ善政を行ったし、無知だったからこそ国民が自分に罵声を浴びせるなど思いもしなかったのかもしれない・・・
情報を扱うのは、本当に「心」が必要になるのだ。
おわりに
現代はこれからさらに格差が拡大していくと言われています。
ルーマニアでの出来事は、過去の出来事ですが決して無視できるものではありません。
国民が政治や人生に興味を持たなければ、一部のものがルールを勝手に作り、自分達だけが肥え太っていくようにしてしまいます。
チャウシェスク最後の演説の時、ルーマニア国民が気が付いた「わずかな人数の権力者より、大多数である庶民の方が強い」ということを、私たちも思い出さなければならないのかもしれません。
革命を起こせ!などというつもりはありませんが、何が本当なのか、真実なのかくらいは常に気にかけておきたいものですね
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